集刊 TOMのコラム能を味わう


能楽読書記


荒木繁・山本吉左右 『説教節』(平凡社東洋文庫)
 「山椒大夫」や「小栗判官」などの中世の語り芸能。「信徳丸」では最後に神仏の加護によって目が開くので、能「弱法師」でけっつまずいても、何だかちょっとだけ安心して見ていられます。でもこけた本人はつらかろう、やっぱり。

根岸鎮衛 『耳袋』(平凡社東洋文庫)
 数章ですが江戸時代の能楽についての記述があります。金春大夫は任侠肌で遊びが過ぎて数曲しか能ができなかった。お上が曲を決める御殿能、覚えている曲に当たってくれと稲荷明神に願掛けしたところ、はたしてその通りになった。それより改心して稽古に専念し、名人と呼ばれるようになったとか。

松浦静山 『甲子夜話』(平凡社東洋文庫)
 江戸時代の能楽に関する記述が多く含まれています。番組や詞章に対する考証が多いですが、こぼれ話みたいなものも記されています。演能中に公家様が居眠りしてがくっと倒れたので笑いが起こり雰囲気台なしとか、新九郎は舞台上で居眠りしながら鼓を打ったが、拍子はまったく外れていなかったとか。新九郎が言うには、蚊は必ず持ち手ではなく打ち手の方を刺すそうです、ほんとか?

新田次郎 『笛師』(講談社文庫)
 第2章、時代は幕末、横笛吹きの市之助は、尾張徳川家に仕える同心でありましたが、あるとき密命が下り、それを果たすために、行動を開始します。彼が追い求めたのは、仕事の成果ではなく、あるひとつの「かたち」であったのかもしれません。
 能管ではなく、雅楽に使う横笛(おうじょう)にまつわる小説ですが、笛を作ったり、吹いたりする心持ちは、やはり同じでありましょう。笛を吹いているときは、すべてを忘れられると述懐する市之助に、大きくうなずいてしまうのでありました。

夏目漱石 『草枕』(新潮文庫)
 「とかくに人の世は住みにくい」と嘆いた主人公でも、「せめて御能拝見の時くらいは淡い心持ちにはなれそうなものだ」といって、能に楽しみを見出しております。
 漱石自身も、小説を書いていないときは、漢詩を作り謡曲を謡うことに、心血を注いだそうです。人のいやらしい部分を小説に描いていた彼にとっては、謡曲の淡清な世界は、心のバランスをとる妙薬であったのかもしれません。
 私も嫌なことがあったとき、いちもくさんに家に帰って、笛を吹きたいなあと思ってしまいますもの。

夏目漱石 『行人』(新潮文庫)
 主人公が、兄夫婦と一緒に、父と客人が謡う『景清』を、聴く場面があります。主人公は、『景清』の勇ましいような惨ましいような雰囲気に、以前涙したことがあると述べております。謡好きの漱石自身も、この曲が好きだったのではないかと、私はひそかに思っております。著作を読むと、彼の性格にも、これに似た雰囲気があるように感じられるからです。
 さて、主人公の妹お重は、父の命令で鼓を稽古し、しぶしぶ謡の相手を勤め続けておりました。しかしこのときばかりは、ついに嫌気がさして、仮病を使って引っ込んでしまいます。縁側の暗いところにひっそり隠れている、そんなお重さんがいじらしいです。

(2003/1/19)


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