集刊 TOMのコラム


巻頭言


2004/9

●近所の神社の秋祭りに、御神楽を見に行きました。江戸里神楽というもので、古事記神話を題材としたものです。普段の所作では篠笛を、舞では能管を使っていました。舞は、ヒシギがたくさん入って、なかなかの盛り上がりでありました。


2004/8

●奥多摩・奥氷川神社の獅子舞を見物しました。篠笛の軽快なお囃子にのって、3匹の獅子が、力強く舞い踊ります。「うまいぞ!」「そら頑張れ!」 声援に励まされての、熱演でありました。


2004/4

●ふと入った和食屋のカウンターに、思いがけず、蓬莱泉「和」を見つけました。あの瓶のなかには、寒狭の山々の水が入っているんだなと、しみじみ眺めてしまいました。関東から、遙か奥三河の渓に思いを馳せる、おだやかな春の午後であります。


2004/3

●どのような方が使っておられたのでしょうか、能管には、牡丹の笛袋と、花をあしらった革細工の筒袋が、ついておりました。どちらも、お手製であります。笛の頭金が亀甲紋だったので、はじめは、亀や流水を描いた袋を探していたのだけど、うん、これはこれで使い続けましょう。以前の持ち主の思いを、引き継ぐというのも、いいものであります。

●NHKアーカイブスで、つげ義春原作の「紅い花」(佐々木昭一郎演出 1976)を、再放送していました。谷沿いの茶店に住む謎の少女・キクチサヨコを、沢井桃子が好演しております。そういえば、つげを演じる草野大悟も、もう亡くなってしまいました。時代の流れを、ひしひしと感じます。


2003/10

●禁漁を迎えました。遊魚証を、捨てようと思いましたが、捨てるに忍びず、一枚一枚眺めては、今年の釣りを思い出す、秋の夜長でありました。

●去年は、毛鉤釣りを始めたばかりで、やたらめったら毛鉤を打ち込み、空合わせで、掛けることが多かったのですが、今年は、しっかり毛鉤を見て、合わせることができるようになりました。


2003/6

●柳田国男『山の人生』によれば、明治40年頃、奥三河、当貝津川の笠井嶋集落で、神隠しがあったそうです。夕方、行方不明になった子供は、晩になって、ドスンという音とともに、屋根に落ちてきたとか。天狗の仕業と申せましょうか。


2003/5

●新緑の渓で、笛を吹いていたら、「あなたの笛につられて、ウグイスが鳴き出しましたよ」と、出会った釣り人が、教えてくれました。


2003/4

●岐阜県根尾村の能郷に伝わる、猿楽を見に行きました。番組は、『翁』に、能三番、狂言三番。桜散る穏やかな日和に、舞の袖が、はらりとひるがえりました。


2003/3

●5年間乗っていてたオフロードバイクを、手放しました。夜、部屋に残った傷だらけのヘルメットを磨いていたら、シールドに、信州の青い空が映りました。


2003/2

●梅の香りが、漂ってきたので、今季の毛鉤を巻きました。ニンフ用の鉤と、銅線を使った、重いものになりました。毛鉤を見つめていると、飛びかかる魚の姿が、心のなかを過ぎります。


2002/11

●笛が乾いてきて、音がかすれ気味になってきました。冬の到来を感じます。そういえば、肌も乾燥して、かゆくなってきました。こちらは、歳のせいでしょうか。

●木々の色づき始めた、秋の山に登りました。途中の渓では、一匹の岩魚が、静かに泳いでおり、思わず見とれてしまいました。渓魚の泳ぐ姿は、本当に美しいですね。


2002/10

●街を歩けば、民家の庭先から、金木犀の香りが漂います。渓流釣りのシーズンも終わり、今年出会った渓魚一匹一匹を思い返す、静かな秋です。


2002/8

●奥三河、足助の平勝寺で、夜念仏を見ました。南無阿弥陀仏の声と、鉦(かね)の音が、夜の山里に響きました。そのあとの盆踊りは、鳴り物を使わず、唄のみに合わせて踊るもので、これもまた、素朴な美しい風情がありました。

●熱田神宮の森で、夏の風物詩、薪能を見ました。冴えわたる能管の音とともに、夕顔が、思いを胸に秘めながら、しとやかに舞いました。どこからでしょうか、遠花火の音も、聞こえてきました。


2002/7

●雨模様の日が、続いています。魚達は、流れ下る餌をたくさん食べて、ぐんぐん大きくなっていることでしょう。そうそう、湿気のおかげで、笛の音が、なめらかになってきました。


2002/6

●ばか長を脱ぎ、渓流足袋にスパッツで足下を固め、渓に分け入りました。水はまだ冷たかったけれど、魚達との距離がちょっとだけ近くなる、夏の釣りのはじまりです。


2002/5

●熱田の森で、舞楽神事を見ました。龍笛の澄みきった音色が響きわたるなか、皐月の空に、舞人の袂(たもと)が翻りました。


2002/4

●釣りから帰ると、家人に、「川の匂いがする」と言われました。ぼうずでしたから、魚の匂いではないようです。ほとばしる春の谷水は、きっと、芳しい香りに充ちているのでしょう。


2002/3

●熱い紅茶をポットにつめ、チョコレートクッキーをリュックに放り込んで、ツグミさえずる早春の渓に出掛けました。岩魚が掛かりましたが、竿を枝にとられ、ばらしてしまいました。解禁釣行、竿さばきは、まだまだです。

●釣りの下見をかねて、支流を散策しました。水が少ないと思った流れでも、遡ってみれば、いい具合の釣り場がありました。あきらめないで、ちょっとやってみれば、いいことがあるように思います。


2002/2

●寒風のなか、隣の空き地にある一本の白梅に、一輪の花を見つけました。渓流解禁の便りも、ちらほら耳にするようになりました。春は一歩一歩、近づいていますね。


2002/1

●水族館で、渓流魚を見てきました。あまごが元気に泳ぎ回っているのに較べ、岩魚は底の方で静かにしています。餌を流すときは、きっちり底をとらないといけませんね。それにしても、どこから見ても愛しいねえ、岩魚殿。


2001/12

●映画『ふるさと』(神山征二郎監督)を、ようやく探し当てました。見れば涙が溢れます。ああ、晩夏の渓流に足を浸して、また糸を垂らしたいなあ。

●映画『リバー・ランズ・スルー・イット』(ロバート・レッドフォード監督)を、あらためて見直しました。渓流釣りをやるようになってから見ると、感涙もひとしおです。『ふるさと』(神山征二郎監督)も、もう一度見たくなったので、ビデオ屋さんをまわることにいたしましょう。


2001/11

●久しぶりに渓流に手を浸したら、かじかむほどの冷たさでした。そういえば、山の田畑には、一面に霜が降りていました。冬の訪れは、もうすぐかもしれません。

●ガソリンストーブの炎を消すと、晩秋の湖に、再び雨音がもどってきました。無心にルアーを投げる友人に一声かけて、お茶の時間にいたしましょう。


2001/10

●頭金には、亀甲(六角形)の家紋が刻まれています。どちらの家のお方が、吹いていたのでしょうか。ちょっとロマンを感じます。笛の銘は、「亀甲」にいたしましょう。

●古い能管を手に入れました。毎日吹き込んでみると、かすれていた低い音も、だんだん出るようになってきました。笛が慣れたのでしょうか。それとも、笛に慣れたのでしょうか。


2001/9

●初秋の渓流は、釣り人も少なくて、静かです。夕まぐれ、たまには竿を休めて、瀬音に耳を傾けながら、トンボの乱舞を見ることにしましょう。

●禁漁期が迫ってきました。今年、渓流釣りを始めて、そこから得た結論は、「いいかげんにやると釣れる」ということです。「いいかげん」とは、うーん、無為自然ということかな。


2001/8

●あまごの腹を割いたら、卵がたくさん出てきました。岩魚の腹は、オレンジの婚姻色に染まっています。そういえば、明け方、オリオン座が東の空に見えました。もう夏も終わりです。

●糸を垂れていたら、ねずみが泳いで向こう岸に渡って行きました。しばらくしたら、また泳いで戻って来ました。ねずみは泳ぎが達者なんですね。

●焚き火で、鮎を塩焼きにしました。盛夏の渓流に、青い煙が立ち上りました。遠雷が鳴っています。夕立になるかもしれません。


2001/7

●岩つつじが満開になり、ひぐらしも鳴き出して、渓流の夏がはじまりました。大淵ではカワムツの群がライズしています。全部岩魚だったらいいのに。

●井伏鱒二『川釣り』(岩波文庫)には、大物を釣り上げたあとは、手がぶるぶる震えて、次の餌を鉤につけられないと書いてありました。開高健『フィッシュ・オン』(新潮文庫)には、手が震えて煙草に火がつかないとあります。釣りの醍醐味を如実に伝えていますね。


2001/6

●約束もしていないのに、渓流で、釣友とばったり出くわしました。ふたりで苦笑いです。

●釣りに行くと、よく蛇に出くわします。青大将や縞蛇はいいけれど、マムシは噛むから、さすがに怖いです。藪漕ぎするときは、「蛇様、のいてござれよー」と、声を出すことにしてます。効果はあると、真面目に信じているのです。

●猟師のなかには、酸っぱい食べ物を、山に持って行かない人がいるそうである。「すっぱい」という音が、「しっぱい(失敗)」に似ているからである。先日、釣りに行って坊主だったのは、梅干しの握り飯を食べたせいだろうか。


2001/5

●新緑の渓谷で、釣り糸を垂れまして、岩魚の尺上を上げました。塩焼きにして、大事にいただきました。岩魚と山の神に、頭が下がります。

●芽吹きのまだ遅い春の林道を走り、山の中へ迷い込みました。至る所で、道や山肌が崩れており、昨秋の豪雨のとりわけ激しかったことを、あらためて実感しました。


2001/4

●犬山のお祭りに行ってきました。お囃子には能管を使っていました。からくり人形が載った背の高い山車のなかで、少年達が一生懸命吹いていました。能楽の厳しい響きとは違い、桜舞い散る暖かな日和にぴったりとした、柔らかい音色でした。ああ、私もかの地に生まれて、笛を吹きたかったなあ。

●友人に、「橘中之楽」なる語の意味を尋ねられた。調べてみると、それは囲碁の雅名であり、ある人が庭の橘木に大果の成ったのを不審に思い、もいで割ってみたところ、果中で二人の老人が楽しげに碁を打っていたという奇譚に依る語であった。皆様も、庭のみかんの木に大きな実が成りましたら、どうぞご注意遊ばせ。


2001/3

●普段使っている箒にふと目をやると、穂先が抜けてしまって、ずいぶんみすぼらしくなっていることに気がつきました。そういえばこの箒とも、この地に移り住んだとき以来のつきあいになります。もう何年が過ぎ去ったのかしらん。春はそんなことを考えさせる季節ですね。


2001/2

●目が痒くなってきました。もう花粉が飛んでいるのでしょうか。今年は例年に比べ、飛散量が多いと言われていますが、そんなことには、へこたれません。大きなマスクをして、オートバイに乗りましょう。

●宮本常一『忘れられた日本人』(岩波文庫)を読みました。語り手ひとりひとりの「生」そのものが、手に取るようにわかるところが好きです。夜這いの話も、たくさん出てきます。私も、昔の田舎に生まれていたら、夜這いに出かけるのかなあ。


2001/1

●コラム「まっすぐな音」に関して。紫式部の清少納言を評した言葉に、「かく人にことならむと思ひこのめる人はかならず見劣りす」というものがあります。卓見だなあ。

●鈴鹿の山を歩きました。少し寒かったけれど、木々の葉が落ちた山頂からは、よい眺望が得られました。お湯を沸かしてもらって、味噌汁を飲みました。身体が温まりました。


2000/12

●今乗っているオートバイが、3回目の冬を迎えました。しかし、このところバッテリーが弱っているようで、押しがけしています。早く交換しなくては。

●落語には、中国の思想にまつわる噺が、結構あります。「廐火事」は、『論語』の「廐焚、子退朝曰、傷人乎、不問馬」を引用した、人情噺です。また、江戸の儒者先生、荻生徂徠の生活を描いた、「徂徠豆腐」という噺もあります。むかしは、中国の思想が、身近に語られていたんですね。そうそう、中国古代の思想家、老子の噺もありました。「老子先生は、何十年もおっかさんのお腹のなかにいたそうですが、一体、お腹のなかてえのは、どんな心持ちなんですか」「始終、秋のようです」 「そりゃまたどうして」「下から松茸が生えてきた」毎度下品なお噺で、失礼をば致します。


2000/11

●だいぶ寒くなりましたね。こんな夜は、ゆっくりいれたアールグレイを片手に、お気に入りのチョコレートでも、食べませんか。

●『墨東綺譚』を読んでいたら、漢詩文の引用ばかりか、『論語』を襲った文章もあちこちに見られ、荷風の中国思想に対する、造詣の深さを知りました。荷風の父は、尾張藩筆頭儒者、鷲津毅堂に学び、その娘を娶ったそうです。なるほど。


2000/10

●オートバイには、厳しい季節になってきました。それでも、少し厚着をして、晩秋の風を探しに行きませんか。

●桂文楽集(ちくま文庫)を読んでいます。謡曲は、やはり謡わないと面白味がないのですが、これは読んでいるだけで、充分楽しめますね。




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