集刊 TOMのコラム能の詞章と中国古典


 能『砧』では、京都から3年経っても帰らない夫を偲び、九州にいる妻が蘇武の故事に倣って砧を打ちます。この蘇武という人は、北方民族である匈奴に拘留されながらも、漢王朝へ節義を守り通したのでした。そのエピソードを紹介しましょう。

 蘇武が大使として匈奴に滞在して間もない頃のこと、彼の部下が関与していたある暗殺事件が明らかになりました。彼は上司である自身にも責任が及ぶと考え、潔く自害しようとしましたが、部下にひきとめられます。すると匈奴の王は、蘇武に漢を捨て、自分の臣下となることを勧めてきました。彼はその要請を断り、漢に対する忠節を守って自刃しました。しかし看護のかいあって、からくも一命を取りとめたのでした。傷が癒えて呼び出された彼は、暗殺事件の関与を問われても、共謀をきっぱりと否定しました。そしてその場で威喝のため振り下ろそうとした剣を、避けることすらしなかったそうです。

 王は頑なな態度をとる蘇武を、穴のなかに幽閉して食事も与えませんでした。すると彼は雪や衣服の毛を食べて飢えをしのぎ、生き続けたのです。次は僻地に追放し、牧畜をさせました。といっても、雄羊だけが与えられたので、羊は殖えることはなかったのでした。彼は鼠を捕り、木の実を食べて生き延びました。数年が経ち、使っていた杖についていた漢王朝の旗印は、すでに朽ち果ててしまいました。そのうち羊も盗賊に盗られてしまい、彼はさらに貧窮にあえぐことになったのでした。

 蘇武は呼び出され、再び匈奴の臣下となることを求められました。中国にいるおまえの兄弟は罪を犯して亡くなってしまったし、妹達は行方知れず、おまえの妻はまだ歳が若いから再婚したそうだ。子供達はどうなったかわからない。中国に戻ってもおまえには何も残ってはいない。匈奴に忠誠を誓ったら、もっと良い暮らしができるはずだと。しかし彼は漢への節義を曲げることはなかったのです。彼は義士ということで、牛羊数十頭を与えられ、辺境の地に帰されたのでした。

 それからしばらくして、漢は匈奴と和睦しました。漢は蘇武の引き渡しを要求したのですが、匈奴は彼は死んだと嘘をつきました。しかし漢の使者が、皇帝が射落とした雁の脚に、紙切れが結んであり、そこに蘇武はどこどこの沢中に生きていると記してあったぞと、はったりを言ってみると、匈奴は素直に詫びて蘇武を返したのです。こうして苦節19年、蘇武はやっと再び中国の地を踏んだのでした。

 さて、能『砧』では、蘇武の妻が匈奴に囚われた夫を思う切なさに、砧を打ったということですが、この話は中国古典には見られず、後世日本で付加された可能性が高いようです。すでに書いたように、蘇武の妻は帰らぬ夫を見限って、再婚してしまっているのです。そして蘇武も、匈奴で新たな妻を娶って一子を設けていたのでありました。

 『砧』の曲趣を削ぐようなお話ではありましたが、私にとっては、とても好きな曲のひとつです。「今の砧の声添へて 君がそなたに吹けや風」という謡は、夫を思う妻の哀切、秋風の冷ややかな香り、遠い京都への空間的広がりを感じさせてくれて、何度聞いても飽きることがありません。 
(2006/1/24)


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