集刊 TOMのコラム渓流に遊ぶ


「テンカラ」「蚊頭・蝿頭」等に関する覚え書き

 これまで様々な方々がテンカラの語源について推察しているが、結局のところ実証できる定説はないようである。もちろん私もそれについて知りたいのであるが、裏づけとなる書物あるいは口頭伝承がない以上、類推を重ねても腹の足しにはならないだろう。なのでここでは、実際にテンカラという語が出てくる文献について、覚え書きをしておこうと思う。


●天保9年(1838) 吉成市左衛門助久『万之覚(よろずのおぼえ)』(天保10年刊)

「三月二六日(中略)宮内テンガラニ而、鱒の子舟場上ニ而十余釣居候」

 新暦に直せば4月下旬の頃であろうか、「テンガラ」によって、鱒の幼魚十匹あまり釣ったとある。「カ」ではなく「ガ」と濁った表記になっている。『万之覚』は、武藤鉄城『秋田郡邑魚譚』に引用収録されたもので、私が見た本は日本常民文化研究所編『日本常民生活資料叢書』第10巻(三一書房 1973)である。

 吉成助久という人は、角館に住む侍で御米倉の役人をしており、釣りが趣味で魚を釣っては人に配っていた。身の回りの様々な事物を記録したものが『万之覚』で、『秋田郡邑魚譚』には、そのうち魚に関する部分が抜き書きされている。

 この「テンガラ」がどのような釣りなのか説明はない。「テンガラ」とは関係ないと思われるが、同年4月15日に黒羽虫70匹以上を取り、それで山ベ(ヤマメ)28匹を釣ったとの記述がある。黒羽虫を山に採りに行ったとの記述があるので陸生昆虫と思われるが、釣りの餌に最適のようである。他にも黒羽虫もしくは羽虫で釣りをしたことが、しばしば書かれている。


●昭和15年(1940) 武藤鉄城『秋田郡邑魚譚』(昭和15年刊)

「赤羽という羽虫は恰好から旨さうであるが(中略)そんな川で釣るときは、テンカラをその虫の色恰好に似せて作らなければならない」
「又岩魚は掬ワラ(掬林)に多いやうだが、その辺の虫は羽根も白いから、白っぽいテンカラを作る」
「大概の魚は蟻を食ふものである。あの小さい蟻を好んで食ふのであるから、テンカラは大きく作る必要がない」
「寧ろチョッピリ付けて置くと、魚は殆んど露出してゐるその鉤の先に跳ね付く。それだから、付ける羽根は鉤が何処等辺に落ちたかを如(ママ)る釣人の目標に過ぎないやうなものである」
「テンカラの此地方へ入つたのは、約二十年前からのことであらう」
 
 仙北部田沢村の条の記述。武藤鉄城は明治29年秋田市の生まれ、地主の四男で慶応大学を退学してから地元で運動具店を開き、大正15年に角館の小学校教師となり、その後高校教師、新聞記者となった。民俗学に興味を持ち、取材した角館の民俗学的資料を書物として刊行している。

 テンカラの釣りが角館に普及したのは20年前と言っている。『秋田郡邑魚譚』の刊行が昭和15年であるから、それは大正10年頃のことになる。前述した吉成助久『万之覚』天保9(1838)年の記録に「テンガラ」の語があり、角館でテンカラが行われていたはずだが、武藤はこの『万之覚』の記述と矛盾が生じていることを意識しているのだろうか。まったく忘れているのか、それとも「テンガラ」はテンカラとは違うものとして認識していたのか、その辺りについては定かではない。

 ひとつ注意すべきことは、テンカラとは毛鉤そのものを指し示しているということである。「白っぽいテンカラ」「テンカラを大きく作る必要はない」という記述を見れば、それは明かである。テンカラ=毛鉤という点は押さえておきたい。

「ヤマベ(ヤマメ)は(中略)その棲息所は瀞でなく、親鱒の居る上流瀬である。釣餌は毛針が万人向きであり、虫としてはクダ虫の幼虫がよく、六月からは大形の鉤がよいやうである」

 そのテンカラを使って、どのような釣り方をしていたのか表記はない。ただ、上記のように万人向けの釣餌として毛針を勧めているところから、錘を付けて毛鉤を瀬に流す、「流し毛鉤」の釣り方をしていたのではなかろうか。馬素の重みで毛鉤を飛ばす今でいう「テンカラ釣り」はそれなりの練習が必要で、万人向きとは言いがたいように思われる。

「キリギリは脂も相当あり、頭ごと食へる。檜木内川でこの魚を釣るには、黄羽色のカンテラがよいし、雑魚だと一般に黒つぽいものがよいやうである」

 これは仙北部角館町の条にあり、赤平東一郎君の言葉である。「カンテラ」と表記されているが、黄羽色や黒っぽいという記述から、テンカラの間違いではなかろうか。武藤氏の記録違いあるいは印刷における誤植かはわからないが、私が見た本は上記の『日本常民生活資料叢書』である。

 キリギリとは鱒の子が秋に産まれて2年後のもので、3年目はヤマベ(ヤマメ)、ヤマベのうち鮭の膚色をして春に雪解け水とともに海に下るものをヨハダ(サクラマスの子)と呼んでいる。


●現代 テンカラ網 鮎用の刺し網(福井・石川県)

●現代 テンカラ漁 遡上する鮭のひっかけ漁(新潟県)


 以上はテンカラという語に関する覚え書きであるが、以下は蝿頭・蚊頭・毛鉤などが出てくる文献を挙げることにする。


●延宝6年(1678) 『京雀跡追』(『新修京都叢書』第1巻所収 臨川書店)

「魚釣針屋有、伊右衛門。はへ頭其の外色々しこみのつぎさほ品々有」

 「はえ頭」の記述。また仕舞い込みのできる継ぎ竿を売っていた。継ぎ竿で有名となる東作が江戸に店を開いたのは天明8年(1788)であるから、それより100年以上前のことになる。


●貞享2年(1685) 『京羽二重』(『新修京都叢書』第2巻所収 臨川書店)

「釣縄 釣竿 富小路おし小路下、伊右衛門」

頭注に、釣縄は釣蝿頭とあり。


●享保5年頃(1720) 江島其磧『浮世親仁形気(うきよおやじかたぎ)』
 世の中にいるいろいろな親父の話を集めた浮世草子である。仏道に入ったものの、昔の鳥狩りや魚釣りの楽しみが忘れられず、川で見つけた下手な釣り人の竿を取って釣りをしてしまう親父。蝿頭を使った釣りと書かれている。


●享保6〜7年頃(1721〜2) 天野信景(さだかげ)『塩尻』巻73(『日本随筆大成』第3期所収 吉川弘文館)

「菰山澗水清く魚のすむべくも見へざるに、あまことて潔き魚の数寸なるが、いとはやく泳ぎ飛侍るを、蝿頭して釣さまめづらしく興あり。毎年六月十六日初て網しえ太神宮に供し、十七日より所の民取侍るとぞ、絵となして尤佳味也」

 蝿頭を使ったアマゴ釣りが記されている。天野信景は尾張藩士、鉄砲頭で石高450石、博学多識で国学儒学のみならず様々な事物に詳しく、膨大な随筆『塩尻』を著した。この文章は、鈴鹿山脈の菰野・湯の山温泉に旅行したときのものである。江戸時代、湯の山は湯治場として殷賑を極めたそうである。かの大石内蔵助も江戸に上るとき、東海道の鈴鹿峠を通らず、武平峠を越して湯の山に滞在している。

 平地で見る鮒や鯉とは違った山岳渓流のアマゴの素早い動きに驚いている。毛鉤の釣りが珍しく面白いといっているから、これは馬素の重みで毛鉤を飛ばす今でいう「テンカラ釣り」だと推察する。新暦の7月中旬頃が漁の解禁というこだが、今と比べると随分遅い。

 巻73が書かれた年代を享保6〜7年頃としたのは、『日本随筆大成』の解題に付された田辺爵氏の執筆年次の推定表によった。


●天保元年(1830) 喜多村信節(のぶよ)『嬉遊笑覧』巻12(岩波文庫)

「山川には香魚などを釣るに蚊かしらといふものを用ゐ、海にて牛角鶏毛を角に作りたるものにて鰹をつる、大小は異なれでも蚊かしらの製なり」

 鮎や鰹の疑似餌をひっくるめて、蚊かしらと呼んでいる。『嬉遊笑覧』は江戸の事物・風俗の詳しい記録であり、江戸という時代を知るには格好の書物である。 

 他にも様々な釣りの記述がある。タナゴ釣りでは、鯨ひげを使った竿に毛髪を糸とし、米のなかの虫を餌とするようになった。鮒釣りでは、それまで使わなかったシモリ浮きを使うようになり、竿も以前と異なるものになった。この竿を得意としたのは、利右衛門の「竿利」で、釣具屋の東作がこれを好んで売り出し世にはやらせた。また利右衛門の継ぎ竿は柔らかく細いので、それまでの2本仕舞いでは収めることができず3本仕舞いになったと。


●明治11年(1878) アーネスト・サトウ『日本旅行日記』(平凡社東洋文庫)

「昨夜夕食に岩魚という美味しい魚を食べた。黒部川で鳥の羽でできた毛針を使って釣ったもので、重さはおよそ4分3ポンド(340グラム)あった」

 黒部で毛針で釣った岩魚を食べたとの記述。アーネスト・サトウはイギリスの外交官で、日本各地を旅行して外国人向けのガイドブックである『日本旅行案内』を著している。

「川では岩魚やタナビラ(アマゴの地方名)などの魚がとれる。釣りの餌は人工のものが使われる」

 これは木曽地方、御嶽山を望む西野での記述である。「人工のもの」とは、生き餌を人工的に養殖しているとは解釈しがたいので、やはり毛鉤のような疑似餌のことではないだろうか。また群馬県、片品川の南郷でも同じく「人工餌でヤマメが釣れる」と書いてある。


●明治35年(1902) 正岡子規『病牀六尺』(岩波文庫)

「鮎を釣るにカガシラ鉤(蚊頭)を用ゐ、鮠を釣るにハイガシラ(蝿頭)を用ゐ(中略)カガシラとは獣毛を赤黒黄等に染めたる短きものを小さき鉤につけて金または銀の小さき頭がついてゐる。鮎はこの美しき鉤を見て蚊と思ひあやまりて喰ひつくといふ事である。ハイガシラは獣毛を薄墨色に染めた短いものを鉤につけてそれに黒い頭がついてゐる」

 鮎には蚊頭、鮠には蝿頭を使う。蚊頭には金銀色の玉、蝿頭には黒色の玉がついているとある。この箇所は、子規の故郷愛媛の釣り上手の人から聞いたことを記したもので、各種の生き餌と毛鉤や餌木などの疑似餌について説明している。

 こうしたことを書くのも子規は釣りが好きだったからであり、この作品のなかにも、「鉄砲は嫌ひであるが、猟はすきである。魚釣りなどは子供の時からすきで、今でもどうかして釣りに行くことが出来たら、どんなに愉快であらうかと思ふ」と書いている。結核となり病床で蝉の初鳴きを聞いた子規は、この一句を詠んでいる。

  蝉始メテ鳴ク鮠釣る頃の水絵空


 以上、手近で見ることのできる資料を挙げてみた。未見のものもあり、集めた資料もさらに読んでみれば、いろいろと興味深いことが見つかるかもしれないので、折々書き足していこうと思っている。資料選定にあたっては、鈴野藤夫 『魚名文化圏 ヤマメ・アマゴ編』(東京書籍)が大変参考になったので、ここに記しておく。
(2011/4/17)


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