集刊 TOMのコラム能の詞章と中国古典


芭 蕉 その1

 『芭蕉』には、「よしや思へば定めなき、世は芭蕉葉の夢のうちに、牡鹿の鳴く音は聞きながら」という詞章があります。これは、中国古代の『列子』という書物に見える故事を踏まえたものです。

 山に薪を採りに行った人が、鹿をしとめて芭蕉の葉で隠しておいたのですが、その場所を忘れてしまい、それがため夢と信じて、隠し場所を歌って歩いていたのでした。ある人がそれを聞きつけ、まんまと鹿を手に入れて家に帰り、薪採り人の歌った夢は、正夢であったと妻に語りました。しかし妻は、あなたはきっと薪採りの人が鹿の隠し場所を歌うという夢を見て、鹿を手に入れたのでしょうから、あなたの見た夢が正夢ですよ、というのでした。そしてこのあと、薪採りの人が隠した鹿を奪われた夢を見て、この人のところに鹿を返せと談判にやってくるという、夢づくしのお話です。

 さて、この「芭蕉葉の夢」なる語を、辞書で調べてみますと、「人生の得失が夢のようにはかないこと」と載っています。鹿を得ては他人に取られ、その他人もまた取り返されるという点を強調した解釈なのでしょう。

 しかし『列子』では、現実が夢となり、夢が現実となるように、夢と現実に区別をつけるべきではないということが、強く主張されています。『列子』は老荘思想の書物でありまして、夢と現実・是と非・善と悪・生と死という、人間を悩ませる様々な対立を退け、それらを超越した自由な境地を目指しているのです。

 『芭蕉』では、夢うつつの対立を越えた境地というような、小難しい思想を述べているわけではなくて、たんに夢のはかなく破れやすいことを表現していると思われます。『井筒』のキリにも、「芭蕉葉の夢も破れて覚めにけり」という詞章がありますね。

 細かいことですが、『列子』の本文では、鹿を「蕉」で隠したとありますから、「蕉」を芭蕉の葉と解釈することができます。しかし晋の時代の張湛という学者は、「蕉」は「樵」(薪)のことであり、薪採りの人が薪で鹿を隠したと述べています。どちらが本当かは、残念ながらわかりません。

 芭蕉の葉は、バナナの葉のように大きくて、春夏の緑色の生き生きとした様子は、とくに美しいですね。それに較べて、秋冬の風に破れてしまった様子はうら寂しいものです。私も松尾芭蕉にならって、庭に植えてみたいと思ったことがあるのですが、秋冬のうら寂しさを考えると、どうも気が進まないのです。
(2001/6/5)


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