集刊 TOMのコラム|能の詞章と中国古典 |
芭 蕉 その2
『芭蕉』には、「雪のうちの芭蕉の 偽れる姿の まことを見えばいかならんと」という詞章があります。これは、唐時代の詩人であり画人でもある王維が、雪景色のなかに芭蕉を描いたという故事を指しております。芭蕉は春夏は緑鮮やかな大きな葉を繁らせますが、冬はその葉も枯れてしまって見る影もありません。ですから雪の中の芭蕉を描くことは、間違っているというわけです。
さて、この画は「袁安臥雪図」なるものでして、後漢時代の清廉な役人であった袁安という人が、雪の降るなかひとり家で横になっている姿を描いたものです。宋時代の沈括なる人がこの画を所有しておりまして、沈括はその著書『夢渓筆談』のなかで、こう述べておるのです。
王維は、文物を描くのに、季節を問わず、桃李(春)と芙蓉・蓮花(夏)を同じ景色のなかに描いてしまうという評伝があるように、たしかに季節と文物が呼応していないのであるが、正確さというものに必ずしも画の善し悪しがあるわけではない。袁安の清廉な人柄を、雪中の芭蕉で表すというところに、この画の妙味があるのだと。
これは、王維の亡きあと、三百年以上を経た時代の評ですから、それが王維の真意であると信じることはできません。残念ながら王維の画は、すべて失われてしまいました。
しかし詩は残っております。彼は人事社会から離れ、自然の美しさだけを真っ直ぐに詠む詩人でありました。その詩は「詩中に画あり」と賞賛されております。ここに一首挙げてみましょう。
独り幽篁の裏に坐して
弾琴 復た 長嘯
深林 人知らず
明月 来たりて相照らす
ひとり竹藪の奥に坐り
琴を弾き 詩を歌う
深い竹林には人影もなく
ただ月だけが私を照らしてくれる
謡曲からは、ずいぶん遠く離れてしまいましたが、『芭蕉』のこの詞章を聞くとき、王維という人のことを、ちょっとだけでも思い出していただければ、幸いに存じます。
(平成辛巳、仲秋望月)
(2001/10/1)