集刊 TOMのコラム能の詞章と中国古典


邯 鄲 その1

 『邯鄲』において、華やかな宮中の様子を語る箇所に、「千戸萬戸の旗の足、天に色めき地に響く、禮の聲も夥し」という詞章があります。千・万という戸数を治める各地の諸侯が宮廷に朝貢し、その旗印が天にはためき、儀礼の声がこだまするという意味で、栄華を極める皇帝の生活を彷彿させます。

 さて、謡本のなかには、この「禮(らい)の聲」が「籟(らい)の聲」となっているものがあります。「籟」は笙の一種でありますから、儀礼に使用する「籟」の音がこだまするという解釈になります。この「籟」という、なじみの薄い楽器の名が出てくるのにはわけがあるのです。

 中国古代の道家思想(万物の本体である「道」との同化を説く)の書物に、『莊子』というものがあります。このなかに、「人籟・地籟・天籟」の区別を論じる箇所があるのです。「人籟」とは、人の吹く笛の音で、「地籟」とは、自然の木や竹の穴に風があたって鳴るヒューヒューという音です。そして「天籟」とは、「道」を体得した人が聞くことのできる天の響きのことを指しておりまして、『莊子』では、この「天籟」を最も高貴なものとして賞賛しています。

 さきの『邯鄲』の詞章には、「天に色めき地に響く」とありますから、この「天地」という言葉から、「天籟・地籟」が連想され、「籟の聲」なる言葉が使用されたと思われるのです。現在の解説本のなかには、「地籟」が風の作り出す音ということから、旗印のはためく音と解釈しているものがありますが、これはいただけません。『莊子』の本文に「地籟は則ち衆竅是のみ」とありますから、「地籟」とはあくまで、木や竹などの自然の穴による音のことです。

 それで、『邯鄲』の作者が、「禮」と「籟」のどちらを使用していたかは、残念ながらわかりません。私は「籟」だけを挙げることは不自然に思いますから(琴瑟や鉦鼓もあるはずです)、「禮」の方がしっくりくると考えています。答えの正否は別としまして、「籟」という言葉が使われるのは、昔の人が好んで『莊子』という書物を読み、中国古代の思想に親しんでいたことの証であるということです。

 いろいろ述べましたが、『邯鄲』は、私の好きな曲のひとつに挙げられます。なぜなら、人生に悩み、皇帝となったことに喜び、それが一炊の夢であったことに落胆し、そして仏道へ帰依して悟りと安らぎを得るという、人の心持ちの多様な変化を、一曲のなかに見ることができるからです。そして、私はまだ悟りも安らぎも得てはいないのですが、この主人公の青年盧生に、自分自身を重ね合わせていることが、この曲に惹かれるの何よりの理由なのかもしれません。
(2001/3/27)


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