集刊 TOMのコラムオートバイに昂ぶる


旧道が好き

 国道の新しいトンネルの脇には、以前使われていた旧道の入り口があることが多く、私はついそちらに前輪を向けてしまう。

 つづら折れの旧道を登りきると、杉林のなかの峠には、苔むした馬頭観音の石仏が、ひっそりとたたずんでいる。石仏を前にすると、旅の安全と馬の健康を願う行商人の祈りが伝わってくるような気がする。

 川沿いの旧道に入ると、家々が軒を寄せ合っている鄙びた集落が、江戸の昔のままの姿で残っているのに、出会ったりする。日が暮れて寒さに震える旅人は、きっとこの集落の燈りを見て、安堵したのだろう。旧道には、昔の人々の思いが凝縮されていると、私には感じられる。

 普段、好きな人のことを思ったり、あるいは融通のきかない自分に悩んだりする。思っているより表現しろとか、悩んでも何も始まらないから行動せよという諫言は、新しい局面を切り開こうとする積極性があり、確かに正鵠を射ていると言える。しかし、思いや悩み自体を静かに味わうことも、結構大事なことではないかなと思っている。思いや悩みこそ、自分をかたちづくる、重要な要素であるような気がするからである。

 最短距離の便利なトンネルを通らず、曲がりくねった旧道を、ゆっくり走ることが好きなのは、歴史のなかに堆積している人々の思いが感じられるという理由によるものであるが、そこには、自分の思いを大切に見つめようとする姿勢が含まれているのかもしれない。

旧道の入り口
(盛夏、南信・飯田街道)








(2000/9/28)


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