集刊 TOMのコラム渓流に遊ぶ


苦い思い

逃げ込まれるとやっかいな大岩の下
 大物を釣り上げたときの感触は、忘れられないものである。餌をくわえて翻る魚が見せる白い腹の一瞬のきらめき、合わせたときの根掛かりとも思える太い手応え、限界まで伸びるハリスとあざやかなカーブを描く硬調の竿。この感触は、渓流を遠く離れた都会の地下鉄のなかでも、目をつぶると身体全体によみがえってくる。

 しかし、大物を逃したときの感触も、同様に湧き上がってくるのである。高い岩の上から、慌ててゴボウ抜きにしようとして、鉤を取られたこと。慎重になりすぎ、下流の大岩の下に逃げ込まれ、糸を切られてしまったこと。こうした苦い思いは、いつも頭をもたげてきて、ひとり舌打ちしているのである。

 若い頃は、歳をとれば、苦い思いは少なくなって、物事はスムーズに進むものだと思っていたけれど、依然として苦い思いばかりである。ただ、生活をちょっと楽しくする香辛料として、この苦さを味わえるようになったような気がする。苦心してようやく釣り上げた深山の一匹のあまごは、本当に涙が出るほど、美しいのである。
(2001/8/25)


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