学生時代、漢詩は四角四面で、どうも感情移入ができなくて、敬遠していたのだけれど、渓流釣りをはじめて、唐時代の王維という人の詩が気になりだした。彼は自然の美を詠むことに巧みな詩人である。詩聖と呼ばれる杜甫は、「国破れて山河あり、城春にして草青みたり」と自然を詠むけれど、社会とそれに関わる自分の思いを主題としている。それに較べ、王維は人事社会から遠く離れて、自然の美しさを飾ることなく詠んでいる。ここに一首挙げてみよう。
中歳にして 頗(すこぶ)る道を好み
晩に家す 南山の陲(ほとり)
興 来(わ)きては 毎(つね)に独り往き
勝事は空しく自(みずか)ら知る
行きて水の窮(きわま)る処に到り
坐して雲の起る時を看る
偶然 林叟(りんそう)に値(あ)い
談笑して 還る期(とき)無し
中年になって仏教を信じ
晩年には南山の麓に家を建てた
行きたいと思えばいつも一人で出かける
この素晴らしい景色の中にいるのは自分だけだ
川を上って水のなくなる所に辿り着き
坐って雲の湧き上がる様子を見つめる
たまたま木こりに出会い
談笑して帰る時を忘れてしまう
ひとりで釣りに出かけ、渓流を遡行して、いつの間にか源流部に辿り着く、竿を休めて一息つき、雲の流れる様子を見つめるとき、いつもこの詩が脳裏に浮かんでくる。また帰り道、山仕事の親爺と出会って話をするのも、釣りの愉しいひとときである。
自然を詠んだ詩を、味わうことができるようになったのは、渓流釣りをはじめたおかげだと思っている。この釣りの楽しみは、なにも渓魚を釣り上げることだけではなく、自然のなかに身を浸すということも含まれているからである。春の息吹を感じ、夏の陽に照らされ、秋の風を受け、そして一木一草に心を傾けるうちに、詩情はおのずと、身に具わるのである。
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行到水窮處、坐看雲起時
(晩夏、奥美濃・庄川支流) |
(2001/10/2)
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