集刊 TOMのコラム渓流に遊ぶ


粗忽(そこつ)

 渓魚といえば、臆病で繊細、賢明で利口と思われがちであるが、餌と見ればすぐに飛びつく、鈍感で粗忽なものもいる。

 堰堤下、沈んだ大岩の際を流すと、ごつごつという魚信、軽く合わせると岩魚が姿を現した。しかし、竿を縮めて引き寄せる途中、糸を緩めた隙に鉤を吐き出されてしまった。翌日同じ場所に流すと、また魚信、今度は充分呑ませて引き上げた。一晩たつと、きれいさっぱり忘れてしまうようである。

 岩魚より繊細なアマゴでも、やはり忘れてしまうことはある。朝まだき、餌を流すと、淵尻から2匹のあまごが飛び出してきた。予想どおり大きい方が喰いついて、釣り上げる。そのあと、2匹目に餌を流すが、鼻で笑って見向きもしない。あきらめて、朝食にする。あんパンをコーヒー牛乳で流し込んで一服し、大キジを撃つ。さて出発、試みにもう一度流したら、すぐに喰いついた。たった20分で忘れてしまったのである。

 思春期や青年期には、楽しかったことや好きだった人のことは、ずっと憶えているものだと思っていたが、最近、ほとんど忘れてしまっていることに気がついた。それらは核となって、今の私をかたち作っているのだろうが、細かいことになると、ほとんど印象が薄くなっているのである。

 ひょっとすると、絶え間なく流れ下る谷間の水のように、とらわれのない自然な在り方が身についたのかもしれない。ちょっと素っ気なくて、さびしい感じもするけれど、そんな生き方もまんざら悪くはないと思いながら、手の内にある忘れっぽい渓魚を、じっと見つめるのである。


堰堤下、昨日ばらした岩魚を今日上げる。
(晩夏、奥美濃・石徹白川)
(2002/3/15)


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