集刊 TOMのコラム渓流に遊ぶ


「トバシ」

 藤の花が、渓に満開になれば、毛鉤の季節の始まりである。水中を流れる水生昆虫を捜していた魚たちは、一斉に空を眺め、落ちてくるカゲロウを狙い出す。

 和式毛鉤(けばり)釣りは、今では、「テンカラ」と呼ばれている。木曾地方で使われていた名称と言われているが、語源については、諸説紛々として定かではない。戦後、食糧事情が良くなり、職漁師が減っていくなかで、心ある方が、この釣りが廃れていくのを惜しみ、「テンカラ」と名づけて書物を著した。そのため、この名称が広く使われるようになったのである。

 他の地方では、元来、「トバシ」と呼ぶことが多かったようである。毛鉤を馬素(ばす=馬の尾の毛を縒ったライン)につけて、空中を飛ばすことから、このように名づけられたのだろう。奥美濃・徳山村のあまご釣りを描いた映画、『ふるさと』(神山征二郎監督)では、毛鉤釣りを「トバシ」、餌釣りを「シズミ」と言っていた。

 私は、「テンカラ」よりも、この「トバシ」という名前を、とても気に入っている。毛鉤を羽虫のように飛ばすこの釣りの方法を、見事に言い当てているからである。語源もわからず、ただ世間に通用しているという理由で、「テンカラ」を口にするのは、どうしても気が引けてしまう。人からは意固地と言われてしまいそうであるが、「トバシ」は、シンプルで本質を突いた、美しい言葉であると、私はひそかに思っている。

 さあ、週末になったら、「トバシ」の竿を携えて、若葉盛んな渓に出掛けよう。岩つつじの花も、もう咲いているに違いない。

毛鉤に喰いついた岩魚
(暮春、奥三河・矢作川上流)
(2002/5/20)


次へ
inserted by FC2 system