集刊 TOMのコラム|能の詞章と中国古典 |
猩 々 その3
中国古典に登場する猩々は、どうやら猿に似て、山中に居るようですが、能『猩々』では、海中に棲むと謡われております。どうして猩々に山と海のふたつの種類があるのか、疑問の残るところです。
それで、日本古典を繙いてみますと、空海の『三教指帰』という書物の、そのまた注釈には、「海棲ヲ為ス獣」とあります。また『宝物集』という仏教説話書の、飲酒をたしなめる箇所には、「大海のほとりの猩々は、酒にふけりて血をしぼられ」と記されています。
この『宝物集』の記述をみると、猩々は確かに海の生き物のように思えます。しかし、この文は対句になっており、「滄海の底なる犀は、これにゑひて角きられき」と続いております。犀も酒が好きで、そのため角を切られてしまうということですが、陸上動物の犀が、青い海の底に潜んでいることになっているのです。
ですから、猩々が海に棲んでいることも、犀と同じように、いつのころからか、伝聞に間違えがあったということで、山中の猩々と別物の猩々が、海中に棲んでいたということはないように思います。伝聞に相違があった理由までは、わかりませんでしたが、こうしたことをさらに調べると、日本人固有のものの考え方が、明らかになるかもしれませんね。
能には、『猩々』同様に酒を讃える曲として、『菊慈童』がありまして、こちらは山奥の深閑とした雰囲気に満ちています。水辺の快活さを表現する『猩々』と、好対照をなしておりますので、較べてご覧になると、より楽しむことができると思います。(2002/4/3)