集刊 TOMのコラム能の詞章と中国古典


田 村

 『田村』では、満開の桜の下、僧と少年が、「春宵一刻値千金、花に清香、月に陰」と互いに詠じ合います。この詩は、宋時代の蘇軾の作品として有名で、「春夜」という題名です。他にも、『西行桜』『雲林院』といった、花を主題とした曲に引用されております。

     春宵 一刻、値 千金
     花に清香有り、月に陰有り
     歌管 楼台、声 細細
     鞦韆 院落、夜 沈沈

「陰有り」といっていますから、月には一片の雲か、霞がかかっているのでしょう。歌声や笛の音も細々と聞こえてきます。「鞦韆」とは、ブランコのことで、春になると女性達が、これで遊ぶのです。「院落」は中庭のことです。楽しげな女性達の歓声もなくなり、中庭の闇のなかに、ブランコが静かに下がっています。

 この詩は、蘇軾の作となっていますが、宋時代に出版された彼の全集には、載っていません。同時代の人が、この詩を彼の作品として、引用しているため、それに倣っているのです。ですから、字句も「細細」を「寂寂」、「沈沈」を「深深」となっている版本もあります。それでこの詩は、彼の若年の頃のものであるとか、習作で本人は気に入らなかったなどと推測されていますが、ひょっとすると彼の作品ではないのかもしれません。

 しかし、本当にいい詩ですね。音楽や女性という華やかな世界から離れ、夜の闇のなか、ひとり静かに花と向かい合う様子が目に浮かんできます。

 彼は、東坡と号していまして、蘇軾というより、蘇東坡といった方が、なじみがあると思います。中国料理で、豚の角煮のことを「東坡肉」(トンポーロー)と申しますが、これは彼がこの料理を大変好んだことにあやかって、つけられたものです。夜桜見物のあとには、中国料理屋で「東坡肉」をたのんで、蘇軾を偲んでみるのはいかがですか。
(2002/2/15)


次へ
inserted by FC2 system