集刊 TOMのコラム能の詞章と中国古典


俊 寛

 『俊寛』には、「国破れて山河あり」の句で有名な、杜甫の「春望」という漢詩が引用されています。「時を感じては、花も涙を濺(そそ)ぎ、別れを惜しみては、鳥も心を驚かせり」という詞章で、絶海の孤島にひとり残される俊寛に、花や鳥が同情して悲しみを寄せる箇所です。

 この「春望」は、高校の漢文の時間に習った人が多いと思いますが、そのときの解釈は、これとは少し違っていると思います。たしか、「時に感じては、花にも涙を濺ぎ、別れを惜しみては、鳥にも心を驚かす」と読み、杜甫が悲しみのあまり、花鳥を目にしても心安らぐことはなく、かえって悲嘆してしまうと解釈していたはずです。つまり、悲しむ主体が、謡曲では花鳥で、高校の漢文の時間では杜甫となっているのです。

 じつは、本家の中国でも、両説あるのですが、明や清の時代に行われていた注釈書の解釈は、杜甫が悲しむとするもので、日本の教科書もそれに倣っているのです。『俊寛』が作られた時代、「春望」に対して、どちらの解釈がなされていたのかは判然としませんが、謡曲では、俊寛が孤島の自然に抱かれて生活しているということが、より強調されるように思います。

 さて、身近にいる中国人に、この詩の解釈を尋ねてみたところ、両説あったのですが、花鳥が悲しむ説をとった人も、鳥は情があるかもしれないけれど、花に情があることには、内心ちょっとひっかかる所があると言っていました。日本人は、花に情があると言われても、それほど違和感を感じないようですが、これもすべてのものに精霊が宿ると考える、日本の文化の特徴なのでしょうか。つねに人間を中心と考えがちな中国の文化との相違を、垣間見ることができるように思います。
(2001/4/29)


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